まっすぐに浜に向かう。
「早く」
チリカは身をよじって俺に声をかけている。
水に入ってチリカを助けないといけないかもしれないと思っていた。
だから、下は水着。ゴーグルも持っている。
チリカは自分の手荷物をさらに布にくるんでいた。そのまま持っていく予定らしい。
「ほら、早く」
言われるがままチリカの後に続くと、チリカは俺の手首を握りしめた。
小さな手は太い俺の手首を上手く掴みきれていないが、グイグイと引っ張られる勢いのまま、波打ち際からどんどん海に入っていく。
毒性生物の巣の、すぐそばの岩場のほうへ。
俺が身を固くして警戒しながら歩いていることに、チリカは気が付いていた。
「大丈夫だから」
なだめるように進み、海中に胸まで浸かる。
今度はチリカが緊張しているようだ。深呼吸して、肩と胸を少し上下させて、
「じゃあ、かがんで、頭まで水に浸かって。息は止めてて」
言うや否や、チリカが先に海の中に消えた。
いなくなるんじゃないかと怖くなって、釣られたように大きく息を吸って頭まで水に浸かる。
チリカの束ねた髪がふわりと海中で揺れるのが見える。
そのまましっかりとその顔を見る前に、チリカが俺の背後に回った。
両肩を掴み上げられる。どこかで見知った感触。
―――――あの、魔物の時の。
体が覚えている。この引っ張られる感じ。
だが、その後は違った。
とんでもない速度で――明らかに人ではなくサメやイルカのような速度で――沖に向かっている。
冷静を装ってなんとか息を止め続けているが、そろそろ苦しい。
そう思ったところでチリカは俺の肩を掴んだまま海上に浮上した。
立ち泳ぎで何とか息継ぎをする間、毒性生物の巣のなかを思い切り突っ切ってきたのに、なんともないことに驚く。
背後にチリカが体を押し付けている感触があるが、それに何か感じるよりも、一気に遠くなったあの浜辺に恐怖を感じるのが先だった。
「目的地はあれ」
俺の右肩の方から、スラリとした褐色の女の腕が伸びる。
指差す先は、岸から見た時に少し大きくなったと思ったあの岩場。岸までとほとんど距離は変わらないように見える。
俺の体に押し付けられたチリカの上半身は人の女のそれ。
だが、下半身は?
背中のあたりに何か当たっているが、人の体にしては冷たい。
「じゃ、潜るから、息吸って」
またチリカが先に潜る音が背後から聞こえた。俺も潜る。
とっくに足のつかないところまで来ている。
サメかイルカ、なんて思ったが、魔物だってこんな沖なら出ておかしくない。
漁師が警戒するようなところなのに、チリカが何か魔除けの術を施したようには見えなかった。
『大丈夫』というチリカの言葉が心もとないが、そのチリカの細い両手に抱えられてまた先ほどと同じ速度で深い海の底を見る。
そのサメらしき生き物がゆっくりと近づいてくる。俺を見て、
―――――どうみても餌だと思ってやがる。
が、直後、おそらく俺の背後のチリカを見た。
サメは俺とチリカを追い抜き、先導するように少し下を泳ぎ始める。
群れる生き物ではないはずだが、イルカや他の大きな魚もついてきて、一団となって俺たちの前後を囲んだ。
俺を見る様子は微塵もない。
そうこうしている間に、岩肌が近づいてくる。岩場の少し下のほうに穴が大きく開いているのが見えた。
またチリカは俺を海上に持ち上げた。
岸はもうかすかにしか見えない。
大きくなった沖の岩は、思いのほか大きくそびえたっていた。
「サメは?」
海中を見ていない。足元がなんともないのか?
「ちょっと潜ってみてみたら?」
声に導かれるまま少しだけ海中に頭を沈める。
海の生き物たちは岩場を取り囲むように泳いでいた。
海面に上がり、
「どういうことだ?」
チリカはその質問に答えなかった。
「この岩場の下のほうにあった穴から、岩場の中に入るから。思い切り息吸ってね」
耳元でささやいた後、チリカは潜った。俺も潜った。
チリカはまた俺の方に手を掛ける。俺自身も、海底へと水をかき分けるように手を動かした。
穴の中にもぐりこむ。イソギンチャクや珊瑚が付着する岩場の間から、ビビットな緑色のまだら模様のウミヘビが顔をのぞかせる。
―――――絶対あれも毒あるだろ。
だが、寄ってこない。
ああいう隠れる生き物は、警戒して襲ってくることがあるというのに。
昔噛まれかかった思い出がよぎる。
上の方からかすかな光。岩場の隙間から月明かりが入り込んでいるのだろうか。
チリカに引っ張られる勢いで、海面が今進んでいたのと逆方向だと気づかされた。
身を任せていると、浮上する。
岩場の中にある空洞。
「着いた。上がって」
後ろのチリカの声が少しだけ離れる。
振り返ると、明らかに人が滞在できる丸い小部屋のような形のスペースがあった。
岩肌に手をついて体を持ち上げ、膝をつき、とうとう上陸した。
―――――チリカは?
すぐ横を見る。
予想していなくはなかった。
だが、想像と実態がここまでかけ離れているとは。
浜で水着を着ていたままの上半身は、あの悩ましいくびれそのまま。
しかし下半身は今や人ではなかった。
腰からのラインはなまめかしいヒップの曲線が残っているものの、緑がかった青色の鱗に覆われた魚の姿。
尾びれをひらりと打ち付けている。そこには黒紫色の模様――丁度あの魔法陣のうろこ模様とよく似た形――が花のように広がっていた。
両手で束ねた髪を一度ほどき、水気を絞って縛りなおす。
目はぼんやりと青く光っていた。あの時見たあの青さとよく似ている。
持ってきた荷物を覆っていた布は耐水性なのか魔法がかかった代物なのか、開くと中身は全く濡れていない様子。
そこから布を取り出したチリカは、横座りで投げ出した魚の部分の水気を軽くふき取っていた。
わずかに入り込む月明かりが鱗からチリカの上半身を照らし、虹色に光っている。
見たこともない美しい動く絵画を見ているような。
今は黒く落ち着いた色になったその双眸と艶やかな顔は俺のほうを向き、
「見過ぎ」
つま先やふくらはぎの周りが人の形になり始めている。ゆっくりと膝、太もも…と露わになってきたところで、俺はチリカに背を向けた。
「アハハハハ!」
これまで聞いたことのないチリカの笑い声は、岩場の中に軽くこだました。
「大変ね」
面白がるような歌うような声色に、ついさっき自分が見たのが何なのかなど、どーでもよくなってしまいそうな。
理性や疑問を堪えて、振り返るまいとする背後から衣擦れが聞こえ、立ち上がる音がした。
「もういいよ」
信じないでいると、足音が俺の背後まで近づいてきている。
思い切り胸を俺の背中に押し付けながら両手を俺の両肩に置き、俺の耳に吐息を吐き出すように、
「いいって言ってるんだから」
「わざとだろお前」
振り払いながら後ろを向くと、荷物の布を軽くパレオのように腰に巻いた姿。
華やかなオレンジ色が良く似合う。
―――――わざとだ。
―――――秘密を探る質問が男として理性を保つのにこんなに役に立つなんて、知りたくなかった。
そう思いながら切り出した。
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