あの翌日、もうチリカはこの街を出ていた。だからひと月待った。
その間、本屋にそれらしき文献があったらと、普段立ち寄らない本屋に立ち寄ったりはした。
むやみやたらと行商に話を聞くと俺が嗅ぎまわっていることが広がるかもしれない。
結局、一人でこそこそやるには限界がある。
組織で動くと早く、だからこそ人魚の国は早くに人の集団に滅ぼされたのかもしれない。
「で、どうしたって?」
今俺はすぐ隣からチリカの声を聞いていた。
あの日チリカがいたあの浜辺の岩場に二人で座っている。
―――――なんでこんなトントン拍子に…。
今日夕方晩飯を食いに店に行ったらチリカが来ていることが分かった。
だから予定通りその後家に帰って荷物を置いてから、浜辺に出た。
あまりにも予定通りチリカは浜辺にやってきた。しかも、まっすぐにあの毒性生物がいるあたりに向かっていた。
自然、『ちょっと待てお前』と止めることになり。
そのまま『聞きたいことがある』と声を掛けた。
そしたら今の状態。思った以上にあっさりと先月考えていたストーリーになっている。
都合が良すぎて不安で満ち満ちている今の内心とは裏腹に、眼前に広がる夜の海。月明かりと星明りに照らされてきらめいている。
「折角泳いだり色々したい時間割いてんだから」
男の家に泊って楽しく過ごす時間を、ということかも知れない。この後今日の夜どうする気なのか。
というか、これまで夜泳いでいた時はどうしていたのか?
気にしだすと本筋に至れない。
「お前、前に故郷じゃ水着なんか着ないって言ってたな」
「うん。ヤダ。覚えてたの?」
ほんのりと卑猥な笑いを漏らすチリカ。
「で、その状態で海に入る、と」
「うん」
どうやって本題に入ろうかと思う。
チリカは俺の顔を見ている。俺もチリカの顔を少しだけ横目で見る。
簡素なシャツとアザラシの革のぴったりとしたズボンは、長くスラリとした足とむっちりした太ももを強調していた。
チリカは俺がそのあたりを見まいとしているのを分かっている様子で、いつもならそれをもっとネチネチ突っ込んでくる感じだろう。
でも今チリカは俺の言葉をじっと待っているように見えた。
「どうやって泳ぐんだ?」
「え? フツーに」
会話が続かない。ただ海がきれいなだけ。
何か言い返してきたりしない。チリカは俺の言葉をただ待っている。
本当に聞かないといけないことがあるのに、それを差し置いて無駄な話題ばかり頭に上がってきてしまう。
ここにくるようになる前はどのあたりにいたのか。いつ頃料理人になったのか。家族や兄弟は。仕事がない時はなにを。
しかもこの世間話すら、口から出すことができていない。
―――――思春期のガキかよ…。
チリカは早々に『もう帰るけど』とか言い出すかと思っていたのに全然帰る気配がなく、俺の横で岩場から足を延ばして組み替えたりしていた。
手でペンダントを軽く弄んでいる。
「そのペンダント、どこで手に入れたんだ」
全然聞きたかったことと違う。
「どこだと思う?」
「親?」
―――――普段なら質問に答えろっつって終わらせるのに。
一方チリカはうつむいて寂しげになった。
「違うわ」
「じゃあ、誰?」
ジッとペンダントを見ている。
「ずっと昔、家に遊びに来た人がその場で作ってくれたの」
―――――そんな馬鹿な。
魔女バーギリアの魔道具を、その場で作ってもらった?
「お前、それ、」
二の句が継げない俺の様子を見て、チリカは改めてまっすぐ俺の顔を見た。
「やっぱり、見えてるのね」
それは邪心ではなく真実を問う声。
チリカに尋ねているつもりだったのに、今は俺が晒されている。
まっすぐな黒い瞳。ペンダントがどうのとか月明かりがどうのとか、そういう問題ではなかった。
「ああ。見えてる。その紫色のやつな」
わざわざ一呼吸開けて、
「婆に聞きに行ったんだ。魔女バーギリアの魔道具だってことだったけど」
「そう…」
だが、その話で一つ、自分の中で心底安心し、胸をなでおろせたことがあった。
「おとぎ話の魔女が作った魔道具じゃねぇんだな。
お前が持ってて、作った奴知ってるってことは、別の魔法使いの偽物ってことだから」
婆がフカシだったのが分かって良かったと口にしたこの言葉を発した俺の顔をまっすぐ見て、チリカが一気に悲し気な表情になった。
眉をひそめて、暫くチリカの顔を凝視すると、チリカは俺から目を背ける。
「行くわ」
「待っ」
立ち上がって駆けて行こうとするチリカの腕を掴んで思わず強めに引っ張ると、普段レストランで見ているのよりよっぽど細く感じる。
折れるかと思って力を緩めたが、引っ張ったその勢いのまま、チリカは俺の腕の中に軽く倒れ込んだ。
そのまま逃げるかと思ったのに、倒れ込んだまま肩で息をしている。
手を上げ、俺の胸元をグーで思い切り叩いてきた。
全然痛くもかゆくもないが、チリカの怒りは大先輩たる傭兵たちから全力で殴られるよりずっと胸の奥まで響き渡っていた。
少ししたらそのままチリカは固まって、また肩で息をし、勢いよく踵を返そうと足を踏み出した。
「待て。悪かった」
一言しながら、自分も一歩だけ踏み出して、チリカの両肩を抱きかかえるようにして押さえると、チリカは身じろぎしながら、
「離しなさいよ」
俺を睨みつけるその顔は、前にレストランの帰りにナム副隊長から絡まれていたときの後とよく似ていたが、その時よりもずっと絶望感に満ちていた。
もう会話は望めないだろう。
でも、何とか伝えるべきと思ったことだけは伝えないと。
おかしな話だがこの時は本当に必死だった。軍がどうとかというのでも、世の中がどうとかというのでも全くなくて、ただチリカが心配なだけだった。
「ネックレスのことは誰にも話してない。
軍にも、他のやつにも、誰にもだ。
俺が見えているのを知っているのは婆だけだから」
少しだけチリカが止まったが、俺を見上げる目つきは敵意に満ちている。
「お前、このネックレスだけじゃなくてなんか隠してるだろ。
想像は幾つか付けてる。
お前に絡みそうな話だってのも当然誰にも喋ったりしてない。
喋る気もない。今後もずっとだ。
でも、お前が本当のことを黙ってると、」
「脅す気なのね!」
チリカはとうとう俺の手を振り払った。
「違う」
チリカが俺から間合いを取った。捕まえることは容易だが、ここでそういうことをするともう話を聞いてくれない気がした。
だから、そのままゆっくりと俺に背を向けて歩き出したチリカに、声だけを向けた。
「ちゃんとわかってないと、お前のこと、守ってやれないからだ」
吃驚したような顔で一度チリカは振り返った。
俺を見る顔はもう怒りに満ちてはいなかったが、代わりに絶望で今にも叫んで泣き出しそうになっていた。
物理的に完全に離れているのに、また胸をグーで殴られているような気になる。
呆然としているうちに、チリカは視界から随分と遠ざかって、そのままいなくなった。
―――――あいつ、今夜泊るとこあるのか?
暫く戻ってこないかと突っ立っていたが、その気配はない。
海を改めて見つめる。
人魚の国があったという海は、俺とチリカの様子を見てどう思ったのだろうか。
先ほどまでと変わらず凪いだ海面は、静かにきらめくばかりだった。
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