港のレストランへようこそ プロローグ

「逃げなさい」
 今いる岩場の下の水中に空いている小さな穴は、子どもしか潜り抜けられそうにない。
 だから母親が自分に逃げろと言っているのは分かっていた。
「でも…」
「おい、ここ、見たか?」
 男の声がする。甲冑の音。兵士だろう。
「お母さんは大丈夫だから」
「わたし、一人でダイジョブじゃな…」
 言い終わる前に、母親は子どもを抱きしめて水に潜り、小さな穴に子供を押し込む。
 言葉を交わそうと思えばできたのかもしれない。
 でも、そんなの思いつきもしなかった。
 決して自分を振り返ることなく、地上の光に照らされて水中できらめく肢体をわが子と地上の兵士に見せつけながら遠ざかる母親の姿。
 自分の目の前で網を掛けられ、銛で一突きされる様。
 青々と透き通った水に広がる真っ赤な血の濁り。
 今でも思う。
 あの時『行かないで、お母さん』と言っていたとしても、あの情景は何一つ変わらなかったろうと。

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