フォニーは『馬鹿な男だったな』と思いながら森に戻った。
ベータだったらあの男みたいなことはしないだろうとその場を去り、木の股に戻って朝。一寝入りしたから今はもう昼過ぎ。
精力は絞れるだけ絞ったのだが、心のどこかが疲れて、もう二度と御免だと思った。
こういうフォニーを、ベータは受け入れてくれるのだろうか。
川で体を洗って、カバンを肩から掛ける。
いざ薬屋に向かうと思うと、精力の補充はバッチリできているはずなのに翼が重い。
今日はあの薬屋にベータがいるだろうか。
ゆっくりと森を抜け、薬屋の店のドアが見えるところまで来る。
下に降りるのが初めてここに来た時よりも数倍緊張するのはなぜだろう。
フォニーは想いを強め、あの時の気持ちも思い出し、拳を握りしめた。
—————これしか、ない。
ドアの前に歩みを進め、ゆっくりとドアノブに手をかけ、ドアを開ける。
きぃぃっという金具の軋みとともにドアが開く。
店のカウンターはフォニーが出て行った日と同じ。薬と獣臭さ。見慣れた引き出し。
栄養ドリンクの瓶はフォニーが出て行った時のまま残っている。
こんなに帰ってきた気持ちになるなんて。
誰かが出てくる気配はない。例によって例の通りだ。
「す、すみませ~ん…」
返事がない。声が小さすぎたのだろうか? 最初にここに来た時も同じことを考えた気がする。
もう一度、
「すんませーん!!!」
まだ出てこない。
あの時は真後ろからベータが出てきたのだった。
でも、今回はまだ、だれも出てくる気配がない。
奥を覗き見る。後ろを振り返り、ドアをもう一度開き、店の前を見回して誰もいないことを確認。
—————裏庭のほうかな?
勝手知ったる他人の家のごとくカウンターの奥に入ってしまうかと決意を固め、ドアを閉めて振り向く。
カウンターの前にはベータが立っていた。
「あっ! えっと…」
言葉が続かない。
白いシャツにズボン姿のベータは、ローブを着ていたころと同じようにカウンターの前にいた。
金属製のアイウェアが輝いている。
土気色の肌は同じだが、髪は脂ぎっていないどころか、綺麗に紐で後ろに一つに縛ってまとまっている。もしかすると、櫛という文明の利器を用いて梳かしたのかもしれない。
早くもその白いシャツに薬草の染みがついている残念ポイントがベータらしい。
しかし当のベータの表情は固かった。
「どうした」
「どど、どうしてるかなって」
「見ての通りだ」
「そ、そお…」
言葉が続かない。
別の男相手だとツルツル出てきた『アタシにしよ!』の一言含め、全く浮かんでこない。
『元気にしてた?』『相変わらず実験づくめ?』『孤児院は?』『もうちょっと人間なんだしマトモな食事取ればいいのにって思ってた』『ローブは?』『薬、売れてないみたいね』『栄養ドリンク、なんでまだ取っといてるの?』。
こういうのは、頭の中にわんさかと沸いて出てくるのに。
しどろもどろのフォニーを見ながら、ベータはため息をついて、そのまま踵を返そうとした。
「あ、ま、まって!」
ベータが改めてため息をつきなおし、フォニーのほうを向きかかる。
咄嗟に浮かんだのは、あの日と同じ言葉だった。
「惚れ薬、あるでしょ?」
ベータがその姿勢をビタリと止め、唇をふるふると震わせている。
「ほしいの。一瓶」
フォニー自身、何を言っているのか分からなくなってきた。
ベータは拳を握りしめ、震える唇をかろうじて開き、細く地を這うように声を出した。
「どうしてだ」
「飲ませるためよ」
「誰にだ」
「あ、アンタよアンタ!」
シーンとする。
言ってしまった、と思った後頭が真っ白になるフォニーだったが、ベータはゆっくりとすぐ左にある棚の中から一瓶取り出した。
金属製アイウェアから涙がこぼれそうに見えるほど、悲壮な顔つきのベータは、カウンターの正面のトレーの上にその瓶を置いた。
「よほど、男日照りなのだな」
ボソリとつぶやいた後、
「代金はいい」
「え?」
「効果は3日だ」
そういいながら、ベータは瓶を手に取った。
—————違う。
そう。そういうんじゃない。
精力を刈るための獲物が欲しいんじゃない。そんなのはいい。
—————3日? 3日だけ? てか、じゃ、そ、それじゃ…
昨日獲物となったあの男が、惚れ薬を飲ませたその効果が切れ、直後に泣いていたあの姿。
惚れ薬の効果があったときの女の嬉しそうな顔。
フォニーはそれをそのまま、フォニーとベータに当て嵌めた。
目の前のベータは瓶の栓をひきぬき、口元に近づけている。
—————3日が過ぎたら。
「やだぁっっっっっツ!!!」
フォニーはベータの手元に思い切り手を伸ばした。
ぐわん
明らかに何かにぶつかる。ベータが『おいっ!』と叫んで瓶をトレーの上に戻したのにも気が付かなかった。
「い、痛っ」
見るとカウンター前に光る網目のようなもの。さっき薬のトレーを置いている辺りだけ、網目がない。
「お前のような客がカウンターの商品や貴重品をまた落とさないように対策を講じたのだ…って、ちょ、」
フォニーは網目のないところに腕を突っ込み、瓶を手に取った。
「お前! それ、あっ!」
フォニーは瓶を掴み、手に取り、床にたたきつけた。
瓶は割れた。中の液体がカウンターの前に飛び散る。
「何をするのだ! 俺を獲物にするのだろう!」
フォニーはもはやベータの声を聴いていなかった。
どうにかして、隙間から向こうに行けないだろうか。カウンターの下とか、透けて入れる場所はないか。あのトレーのある穴のところから、腕を出すことしかできないのか。
「だって、やだ!」
ぼろぼろと涙がこぼれ出る。何とかしないと。今、ベータが、ベータと。
「俺の何がそんなに嫌なんだ!」
ベータは今までフォニーが聞いたことのない大声で怒鳴っている。フォニーの耳にはベータの声がようやく届いた。だから、もう鼻水でぐずぐずで、どうしようもない声で、
「3日だげどが、やだ!!! ずっど一緒がい゛い゛っ!」
ぐすぐすとフォニーが鼻水を啜りなおす音だけがカウンター越しに響いていた。
鞄からハンカチを取り出す。思い切り鼻をかむ。
鼻をかみ終わったハンカチを鞄に戻そうとしたその手を、ベータの手が止めた。
フォニーの横に来たベータは、そっとハンカチをカウンターの上におく。
手の甲の、浮き出した血管が見え、その腕、肩、首、頭と視線を上に上げる。
赤黒い顔をして大汗をかいたベータが何も言わずにそこに立っていた。
「アタシ、ベータと一緒がいい」
まだベータは何も言わない。多分、ベータは言えないだろう。なんたって十八歳。いや、もうすぐ十九歳? 五十歩百歩だ。
だからここは、お姉さんたるフォニーが、
「いい?」
フォニーはそっと聞いた。
「あ…」
口を開き、何か言おうとしている。
少しだけ羽ばたき、ベータの耳元に顔を寄せる。誰も見ていないのに、誰かに見られたら恥ずかしいと思った。
「ずっと一緒にここで暮らしていい?」
ベータは、カチコチになりながら、ぎぎぎ…と音が聞こえそうなほどゆっくりとフォニーを見ながら首を縦に振った。
フォニーは嬉しくなって、ベータを抱きしめる。
ベータがフォニーをかろうじて抱き締め返したのは、その日からしばらくたったある日の夜遅くになってからだった。
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