ドラッグストアへようこそ 70

—————そういう…こと…?
 正しいのはあの家を出ていくフォニーだ。そういうふうに、強引に思っていた。
 最初に出会ったときから順番に少しずつベータのことを思い出していく。
 あの薬屋で一人謎の実験と孤児院の往復を繰り返す男。
 そのまま歳をとっていくことを考える。
 体を引きずることすら許されないだろう。本当に危なくなったら魔族の誰かが助けるのではないだろうか。
 別に一人じゃないんじゃないか? と思おうとした。でも、
—————あの暗闇。
 初めてベータの夢の中に入ったときのあの漆黒と言っていい黒は、今思い出しても寒気がする。
 そこに、わざわざ戻るのか?
 フォニーは、ベータが夢の中であんなにフォニーのことを考えている事実、それが嬉しくてしょうがなかった自分という事実と向き合ってなお、薬屋に戻るのが怖かった。
 今はたまたまそういう感じの気持ちだったから、今日偶々ああいう夢だったのかもしれない。
 日が高くなったところで店のあたりを見たら、ちょっと気持ちが変わるかもしれない。
 フォニーは悶々と考えて、一度日が高くなった当たりで遠巻きにあの家を見てみようと思った。
 そのままひと眠りできるかと思った。
 全然できなかった。
 夢の中で見たベータの何パターンもの別バージョンを想像した。
 フォニーの草むしり中に出てきて実験を始め、フォニーが悲鳴を上げるのを見て面白がるベータ。
 夕食で栄養ドリンクを渡し、味の改良にフォニーが喜ぶのを見てドヤ顔になるベータ。
 孤児院でフォニーに群れる子どものうち、男の子だけピンポイントで追い払うベータ。
 フォニーへのお土産に謎の置物を買ってきて、怪訝な顔をするフォニーを見て悩むベータ。
 フォニーが適当な男から精力をあさって帰ってきた翌日の夕食で機嫌が悪くなるベータ。
 夜な夜な護符を作っているところに差し入れのパンを持っていくと、話半分で曖昧な返事を返すベータ。
 そんなのが消せども消せども浮かんでくる。
—————違う、私の家は魔界。
 言い聞かせては浮かぶ妄想を振り払っているうちに、少しずつ明るくなってくる。
 もう寝るんだから、と思いつつ呆然ともしながら、木の枝に腰かけた状態からそのまま森の上へ。
 地上に降りることなく飛び上がる。
 明るくなって、普段なら人間に見つからないようにと遠慮する時間帯に、あの家の近くに体が動いていた。
 人間? ベータ? そうかな?
 ごちゃごちゃとした考えを前に、森の上から遠巻きに家を見る。
 ベータが出てくる由はない。
 だから大丈夫と、少しずつより近く。
 看板が見えて、すぐに森に忍び込めるところの中空で止まる。
 なんということはない。夜見たのと同じ家。ドアが開くことはなく、思った以上にただの風景。
—————魔界に帰るべきってことか。
 感慨の沸かなさに、確信した。やはりフォニーの家は魔界なのだ。
 森に戻って、木の股のあの場所に戻る。
—————とっとと帰ろう。
 手慣れた手つきで魔界の門を呼び出し、通行証をかざすと、来た時よりも小さな入り口が開いた。
 くぐっていくと、魔界の、来た時の門のところ。
 ざわざわとした人だかりと噂話と魔力に満ち溢れた魔界。
 買い物でもしようかと、昨日の夜は考えていたのだが、そんな気も薄れ。
 まっすぐ帰ることにしたフォニーは、一目散に廃屋にたどり着いた。もはやどんな道を通ったかも覚えていない。自動的だった。
 忍び込み、荷物を下ろし。
 慣れていた。落ち着いてもいた。
 荷物の中身を全て取り出し、整理して。
 外にでて、水浴びをし、戻ってきて、洗濯物を干し。
 次に出かけるときは、今度こそ、次の街を物色しなければならない。
 多少余裕はあるが、確実な戦果を狙わなければ。
 ベッドに横たわる。
—————ここがアタシの、
 適当な場所に放り出していたベータの土産のポプリの香り。
 そういえばここに戻ってきたとき放置したのがそのままだった。
 香りはすでに飛んでいるが、なんとなく落ち着かなくなり、起き上がって手に取り、定位置にと思ってドアノブに掛ける。
 掛けながら思った。
—————ここに、ベータが居たら、
 手を取って連れてきてやったフォニーを完全に無視して『ここが魔界か』とつぶやきながら神妙な顔で辺りを見回すベータ。
 フォニーの部屋がどことなく荒れている様子を見て満足気になるベータ。
 そんなベータを見て苛立つフォニーを見てさらに嬉しそうにするベータ。
 なんの躊躇もなく荷物を広げて何かを床に直書きしだすベータ。
 慌てて止めるフォニーをみて不思議そうな顔をするベータ。
 魔界の外出先や買い物先をフォニーから聞きたがるベータ。
 珍しい毒草を見つけてフォニーそっちのけではしゃぎだすベータ。
 部屋に戻ってきて成果物の植物類を広げ、フォニーの洗濯物を容赦なく床に落として窓辺に干し始めるベータ。
 怒るフォニーをみてしょげる癖に、そんなのもつかの間で近寄ってフォニーの頭を撫でるベータ。
 床で寝ようとするのを止めてフォニーがベッドに誘うと、おずおずと気恥ずかしそうに寄ってくるベータ。
 フォニーを横抱きにして、穏やかに眠るベータ。
 フォニーは、ドアから目を離し、廃屋のこの部屋の中を眺めた。
 ベータはいなかった。
—————アタシの家はここだけど、ここはアタシの帰る場所じゃない。
 ベータのことを考えると、全然落ち着かない気持ちになる。
 居ない生活——魔界と人間界の往復——をしながら、人間の魔力を漁って、もしかしたら死ぬかもしれない生活のほうがフォニーにとっては穏やかな魔族の暮らし。
 それなのに、ベータがいないというだけで、『違う』と思った。
 ベータがフォニーのことをどう思っているかとか、そういうのでもなかった。
 夢の中で本心を覗き見てなお、そうだと思っていたのに。
—————思ってたわけじゃなくて、信じてただけなのかも。
 何を?
 決まっていた。
—————ベータがいるところ≠帰るところ、って。
 いや、それも違う。
 フォニーは自分の顔が多分、ベータの夢から出てきた直後と同じくらい真っ赤になっているだろうことが分かっていた。
 ベータの居ない部屋を眺めて穏やかな絶望を感じていることも。
—————アタシはベータのこと、全然好きじゃないって信じてた。
 それを言葉にしたとき、雷が体の中に落ちたような衝撃が走った。
 立ち尽くすも、落ち着かず、腕組みし、部屋をうろうろする。
「いつから?? どうして? どこが?」
 夢の中でベータが呟いていたのとそっくりの言葉を繰り返し、時折ああっと謎の叫び。
 隣人がもしいたら、何かドラッグでもやったんだと思われたことだろう。
 その間も、ベータがフォニーに優しいときとか、軽くいじわるするのとかが浮かんでくる。
 昨日は頭の脇に押しやれていたが、フォニーにはもうそんな芸当出来なかった。
 もう耐えられない。
 ふらふらとベッドに近寄る。
 部屋を振り返る。
 ベータはいない。
—————ミイラ取りがミイラってこれか。
 そのままベッドに倒れ込み、うつ伏せになったまま叫ぶ。
 だから『大好き! 会いたい!』の声は部屋に響かなかった。
 明日の行先を決めることと同時に、寝落ちすることができたのは、自分の声の大きさにフォニーが吃驚することがなかったからなのだろう。

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