マルタンは開け放したドアを背に、カウンターの前に立っていた。
「用意は」
「えっと」
後ろを振り返るがベータの姿が見えない。
「ちょっと待って」
荷物を手に取ってくるだけ、にするつもりだったが、足は二階のベータの部屋の前に向かっていた。
部屋のドアはここでも開いていた。
ベータは、部屋の真ん中でしゃがみこんで何かしている。
声をかけずにそのまま待ってみたが、ベータがフォニーに気づいて立ち上がる気配は一向に見られない。
「ベータ」
ごそごそしていた動きをピタリと止め、立ち上がる。
そして振り返った。
フォニーを見る。
「なんだ」
「マルタン来たから、その、もう」
「ああ、そうか」
—————超棒読みなんだけど。
「そ、そう…」
「じゃあ、これで」
「うん。そうね。じゃあ」
ベータは見送りに来る気すらなさそう。再びしゃがみこんだ。
—————じゃ、さっさと出てくわ。
怒りとも何ともつかない苛立ちを覚えながら、階段を降り、鞄を斜めがけする。
足に鉄球でも付けているように、一歩前に出すのが重い。
ズシン、ズシンと音が鳴りそうだ。
実際にはそんなに時間は掛かっていなかったかもしれない。
だからマルタンに『急げ!』とか言われないまま、店のドアの外に出ているのかもしれない。
マルタンは無言で、ドアのすぐ前で魔界への入り口を開けようと、鞄の中から何か探り始めた。
「ちょっと、ちょっとまって。もうちょっと向こうのほうが」
「はやいほうがいいのではないか?」
「ドアとか、巻き込まれたらさ。ダメでしょ。一応、一応よ」
そそ…と誘導し、ドアから離れ、さらに店からも離れる。
少し横を向くと、二階の窓が見えた。
「もういいだろう」
「ええ。ここなら大丈夫よ」
チッとマルタンの舌打ちが聞こえたのは、きっとフォニーに命令されているから。
マルタンは足元にカバンから取り出した瓶の蓋を開け、
「手の甲を上にして前に差し出せ」
その上に何か塗った。
白かったフォニーの手の甲は真っ黒になる。
「魔界の門を開けたら後は少しついてこい。通行証をつけて、それで終わりだ」
コクリと首を縦に振る。
マルタンは瓶を仕舞い、空間に右手を差し入れるような動きをした。
そのまま手刀を上下に動かすと、わずかに隙間ができた。
両手を差し込み、左右にゆっくりと開く。
真っ黒な空間から嗅ぎ慣れた懐かしいにおいがする。
—————帰るんだ。
窓のほうを見た。何もない。二階の窓だ。
後ろを振り向くと、玄関のドア。締めてきたまま。店の看板も見える。
「おい、早くしろ」
マルタンはもう向こう側にいた。
窓のほうを見ながらすき間に足を踏み入れる。
少しだけ二階の窓が開いた気がしたが、体は魔界の中にスルリと吸い込まれるように馴染んだ。
すき間から見える光。
マルタンは上の方からその隙間を閉じる。
手で少しずつ閉じていくと、一つ一つ光が消えていき、逆に魔界が明るくて。
岩と枯れた木々に、ギャアギャアと騒ぎ、モグラの首を噛み締めながらその血を滴らせて飛ぶ蝙蝠。
最後の光が消えた時、魔界の雲と赤い星々と月が見える。
—————とうとう帰ってきたんだ。
「ついてこい」
マルタンは仕事を済ますぞとばかりにツカツカと歩き出す。
その後ろを歩きながら、
—————マルタン、ベータよりも背中がちいさいな。
ローブのせいで大きく見えていただけかもしれない。
汚いローブを思い出し、マルタンの正装と比較してはいけないと言い聞かせた。
目的地はすぐだった。
石の扉はひとりでに開き、中には豪奢な事務室。
通行証を貰うのは生まれて数年以内のはずだが、
「通行証の発行ってこんなとこでするのね」
マルタンは『馬鹿』という可哀そうな生き物を見る目でフォニーを見つめ、語り掛けた。
「いや。違うぞ」
「え?」
「通行証は付与する担当が回っていくのだ。
この場所は伏せられている。
付与が終わったら、お前は適当な場所に転移させるから」
「でも、今回手続きって」
「前例がないのだ。今後のために通行証消し方について記録を残す必要があった」
「さいですか」
「人間の魔法使いに通行証を消されるような弱小魔族はいらんから、二度目はないだろう。
このことは内密に。記憶を消さないのは」
「りょ」
人が話している途中で『りょ』、とはなんだ! という憤慨したマルタンの向こうから、ウサギの耳が生えた魔族。
「ああ、そちらの。では、部屋の中へ」
もうあとは事務的も事務的。
手の甲の黒いところを削ったりなんだりされ、身体測定され、検査され。
もろもろチェックされ。
「うん。どこも悪くないですね」
「悪いって何よ」
「寄生虫とか。病気とか」
ガチめの健康診断だったな、と思っていたが、本当にただの健康診断だったのか。
「しかし、通行証、綺麗に外れていますね。
やはり魔王様の息子様だけある。人間技ではありませんな」
「そうでしょう。そうでしょう。やはりベータ様は」
魔王の息子の技量でひとしきり盛り上がっている。
延々と語り合いが続くが、フォニーにとっては『付与が』『刻印の』とか、言葉の一部しか意味が分からない呪文の吐き合いに立ち合わされているのと同じ。
施していただく側なので強いことは言えないと思っていたが、とうとう痺れを切らし、
「そろそろ通行証付けてくれてもいいんでない?」
「ああ、そうか、まだだったか」
「そうですね。じゃ、手の甲を」
黒く塗られたままの手の甲の上に、ウサギ耳の魔族は印のついた紙を置いた。
見慣れた通行証の印。その上に白色の液体を塗った。
「ちょっと温かくなりますから」
「は~い」
少し待っていると、ウサギ耳の魔族は湿った布を取り出した。
「じゃ、ぬぐいますね~」
塗ったものを全てとると、水気で湿っているものの、手の甲は真っ白になった。
少しだけ魔力を込めると、白い手の甲には通行証が浮かび上がっている。
—————これで、元通りのアタシになったのね。
鞄を開け、ハンカチを取り出す。手に持っていくと、フワリとポプリの香がした。
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