ドラッグストアへようこそ 62

 翌々日の昼下がりは良く晴れていた。
 塗装日和。
「朝からやったほうが効率がいいが」
「早起きしても午後からが限界のサキュバスへの当てこすり?」
 ベータはフォニーを一瞥し立ち去る。そそくさ、という形容詞がぴったり。
—————ここ3日ずっとこれなのよね。
 クレアのところに行った辺りからずっと。
 昨日塗料は渡され済み、説明も頂き済み。
 布で鼻と口を覆う。直接塗料から揮発するガスのようなものを吸い込むと危険だそうだ。
 また、長袖中ズボンでアームカバー着用。
 最初見た時、裏庭のゴミ山から湧き上がった煙とよく色が似ていたので、じつはあのスーパー危険ゴミから作った液体なのかと思ったが、ベータのでは違うらしい。
 あれより色が濃いめの緑に寄っているが、時々キラッっとラメのように輝くものが混ざっていて、祖の光を見るたびに動悸がする。
 塗料の木桶を手に下げ、屋根の上に飛んで上ると、温かい心地。
 昨日塗ったところが乾いている。塗っていないところを塗って、乾いたところは二度塗りというご指示。
 あったか~い屋根上に長袖で、この作業開始の時間が暑い。フォニーはこの後夜も作業できるから、人間がやるよりだいぶ楽なのだというのはベータ殿の有難いお言葉。
 木桶を適当なところに置いて、突っ込んだ大きな刷毛で端から塗っていく。
 うららかな昼下がりの軽作業は、考え事に向いてない。
 だからフォニーは、無心に作業を進めながら、少しずつ消えていく塗り残しにただただ穏やかな心持ち。
 マルタンことキースが玄関先に現れた時も、『ああ、予定通りだな』と思っただけだった。
 向こうはフォニーを見上げ、
「なんだ!」
「いらっしゃい」
 苛立った顔になり、フンと鼻を鳴らして家に入っていった。
 フォニーは来年もあの行事をやるのか、と思った。
 いつもなら聞き耳を立てに行く。
 でもそんな気にならない。だってこんなうららかな昼下がりで、だって。
 心がざわつくのを無視し、何も考えないように刷毛を動かして、動かして、動かして、塗料に刷毛を浸し、また動かす。
 布越しでもツンとするような、甘いような匂いが漂い、クラクラする。
『休憩を取りながら作業するように』
 ベータの声が蘇る。
 気づけば昨日塗れていなかったところはすべて塗り終わっており、後は二度塗りゾーンだ。
 丁度キリがいい。
 塗料の木桶に刷毛を突っ込んで蓋をする。屋根から降り、マルタンが入った玄関の前でアームカバーと口の布を取る。
 玄関のドアを開けるのも面倒で、壁をすり抜けた。
「手続きとしては至って簡単ですな」
 ビクリ、と身を震わせた。
「魔族だからな」
 ベータの声だ。
「ええ、私が門を開いて、通行証の付与を行う手続き者に連れて行きさえすればそれで終わりです」
 これ以上、聞くのが怖くなったフォニーは、こわばった体を動かした。
 パタパタと足音を立てると、声が止んだ。
「あら? 何?」
 わざとらしく声を上げたフォニー。顔をこちらに向けたのはマルタンだけ。
 ベータは机に目を伏せている。おそらくフォニーが来ていることに気づいていたのだろう。
 マルタンはベータのほうに向き直り、
「今聞かせてよいでしょうかな?」
 ベータは手を組み、考えてから、フォニーのほうを見もせずに、
「そこに座れ」
 ムッとしながらも、大事な話。
—————魔界に帰れるかもしれない話。
 なのになぜか、昨日まで忘れよう、考えまいとしていたことを思い起こす。
 不安。なぜ?
「通行証の再発行が可能だそうだ。
 今の魔法を全て解除してからになるが、戻れる」
 フォニーは一応聞いた。
「いいの?」
 フォニーの不手際で瓶を割ったことが始まりなわけで、ベータにはNOを言う権利がある。
「構わない」
 ずっとフォニーの顔のほうを見ないまま。
 フォニーはすぅっと体が冷えるような心地。
 前だったら最初に一言『どうだ』とベータからきたところで、『ほんとにぃ~~!!』と飛び跳ねていた気がする。
 ベータに『ダメだ』と言われたら、すぐに『はぁっ!?』と悪態をつき、切り替えしたことだろう。
 でも今は。
「解除に準備がいる。
 それなりに材料を集める。付けた時と同じだ。
 一週間。
 キース、魔界に行くのにお前が準備する期間はどのぐらいだ?」
「手続き所にだけ話をつけて、向こうで話ができれば。
 急ぎならすぐにでもできますが、通常ルートですと、いやそれでも1週間もあれば十分ですな」
 来週にも、ここから離れることができる。
「どうだ?」
「ど、どうもこうもないわ」
「とは?」
 フォニーは言った。
「魔界、帰るわよ」
 言ってしまった。
 口をついて出た感じだったが、ベータはその時だけ、フォニーの顔を見ていた。
 少しだけ固まったように見えたが、フォニーがそう思いたかっただけかもしれない。
—————アタシ、どういう顔してほしかったんだろ。
 一方のマルタンは気が楽になったようだった。
「承知しました。では、私のほうで魔界の手配をいたします。
 ベータ様のほうではそちらの準備を進めてくだされ」
「わかった」
「よろしく」
 マルタンのウキウキに対し、ベータとフォニーはお互いどこか棒読みの返事。
「話、それだけ?」
「ああ」
「じゃ、水だけもらって戻るから」
 フォニーは二人に背を向けた。
 後ろではマンドラゴラ一〇〇の来年の話をしているようだった。
 今年飲んでしまったから来年は、というようなやつだ。
 フォニーは家を玄関から出て、その声が徐々に遠くなるのを感じた。
 ちょっとそこまでなのに、はるか遠くにきているような気持ちになりながら屋根に上る。
 いつ自分がアームカバーと口元の布を再装着したのかも良くわかならないまま、少しずつ日が落ちていく。
 塗料を取り、昨日塗った一度塗りの箇所をペトペトと塗りつける。
 手元が同じところを右左する。
 塗り始めた時よりも明らかに効率が落ちているのを自分でもわかっていながら、フォニーはその手元の動きの悪さをどうにかする気にならない。
 遠くを見て、雲が流れるのを見て、刷毛を置いて少し家の周りを飛ぶと、キースが玄関から出てくるのを見た。
 キースは上を見上げ、フォニーを見て、そのまま自ら作った裂け目から魔界へと消えて行った。
 フォニーはその日、二度塗りする予定にしていた場所の半分も塗りなおしできないままだった。

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