「でも、そんなようにはとても…」
どう見ても風邪とか、ちょっと調子が悪いだけにしか見えない。
コーウィッヂは上体を起こしたものの、目はティーカップを見つめたまま。
「…ジーにはもともと持病があるんだ。
完治が難しい病気でね。
特別な…薬…みたいなのを使ってたんだけど、それが効かなくなっちゃって、バランス取れなくなったって…。
代わりになるものがないかは前々から調べてた。
ベータにはそのあたりも頼んでいたんだけど…」
医者の出番がないのに魔法使いの出番があった理由がこれではっきりした。
「でも、いくら何でも急じゃ…」
「隠してたっぽい。あいつらしいだろ」
「…あと、どのくらいなんですか?」
「わからない。
急にその時が来るかもしれないし、ゆっくりと進むかもしれない。
できることは全部やるけどね。
とりあえず、運動はしないほうがいい。
あと、頭をあんまり動かさないほうがいい。
部屋に籠ってごそごそ何かするのはできると思うけど、他は難しいかな。
今のところ字は読めてるから、僕の仕事手伝ってもらうつもりではある。
絶対安静! なんてできる性格じゃないから、ジーは」
「…私にできることはありますか?」
「ない」
即答したコーウィッヂはまっすぐユンを見据えている。
「僕が頼んだ仕事を精いっぱいやってほしい。
ジーの体のことは、ジー本人が一番よくわかってる。
手を出さないで」
いつになく強いコーウィッヂの言。
ユンはコーウィッヂがそうなるのも当たり前だと自省した。
「…気持ちは、有難いよ、本当に…」
言い過ぎを反省したのだろうが、曖昧になっていく言葉尻。
コーウィッヂに余裕がないのが見て取れる。
そのくせユンは、恐ろしいほどに落ち着いていた。
—————私、ジーさんよりコーウィッヂ様のほうが心配。
自分がこんなに薄情な人間だとは思っていなかった。
命の終わりが迫っているジー。
でもそれは、コーウィッヂを形作る要素の一つでしかなかった。
初日に『まともそうな人』として認識できたジーがいなかったら、今ユンはここに居ないのではないだろうか。
そのあとも今も、色々と教えてもらって一人前になった。
明るくて、思っているより軽いタイプのジーがいるからこそ領主館はバランスが取れているように思う。
そんなにここに必要な、お世話になった大事な人なのに…。
コーウィッヂの方を見ると一瞬でユンの脳裏のジーはほとんど霞のようになってしまう。
「大丈夫だから。仕事に戻って」
コーウィッヂに言われるがまま頭を垂れてダイニングを出ると、とても長い時を経たように思ったのに、実際には十数分だったことに驚いた。
廊下をコビが通り過ぎる。
サッサッというその動きがユンの心の靄も掃いてどこかに捨ててきてくれないだろうか。
コビはユンの前で止まって左右に柄を振っていた。
「ごめんなさい、何でもないです。ちょっとぼーっとしてました」
左右に柄を振りながら近づいてくる。
先日のことがあったからかコビは心配性になっているらしかった。
「ダイジョブですよ~」
なんとなく合わせて左右に動いてみる。
コビと動きが完全に一致し、どうやってこの謎のモーションから離脱するか迷いだしたところに、
「なにやってんの?」
「うわっ!」
振り返ればコーウィッヂ。
「いいえ! なんでもないデス!!」
慌てて手を振ると、コーウィッヂがふっと笑った。
「そ。じゃ、了解」
「では、失礼します」
そそくさと立ち去る。
しょうもないことで変な汗をかいてしまったユンが、もう夕食の支度をしないといけない時間だと気づいたのは階段の裏側に回ったころだった。
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それから1週間、2週間…と日は過ぎていき、ジーの調子は少しずつ着実に悪くなっていった。
最初のころは部屋の中で難なく体を動かせていた。
二日目あたりから、歩くのがゆっくりになった。
膝の動きが悪くなって、歩き方がおかしくなってきたのが五日目のお昼。
翌週になると、最低限の移動以外は椅子に座ったままのことが増えた。
十日ごろから、食べる量が少なくなっていって。
そして二週間を少し過ぎたころ、書類の、とりわけ小さい文字が読めなくなりはじめた。
今、ユンはジーが書いたメモをコーウィッヂにもっていくためジーのそばに待機している。
「これでいいですか?」
頷くジーから、ペンを何度も取り落しそうになってようやくサインした書類を受け取る。
ジーはペンを机に落とすように置いた。
その様を見ないようにしてユンはジーの部屋を出る。
コーウィッヂの書斎のドアをノックし、入ると、コーウィッヂは淡々と仕事をこなす姿勢を崩そうとしない。
それはまるで修行僧のようで、雑念を振り払うために見えた。
ユンが雑念を振り払おうとするのと同じような。
でもコーウィッヂが今振り払おうとしているのは、いや考えまいとしているのは雑念ではない。
手に持つ書類がずっしりと急に重みを増した。
「ここ、置いといて」
促されるままコーウィッヂの袖机に書類をそっと乗せる。
「握る力が残っていないようです」
「わかった」
ユンが一礼して部屋を出ようとしたとき、
「ユンさん」
「はい」
「…多分だけど、噛む力も弱くなってるんじゃないかと思う。
スープとか、すりつぶしたリンゴとか、食事から固形物を無くしてほしい」
「かしこまりました」
その間、コーウィッヂは片時もユンのほうを見ることもなかった。
一心不乱に書斎の机の向こう側、窓の外の、遠くのほうの空と森を見つめていた。
風が強く、雲がどんどんと行き過ぎる。
ジーの命が一緒に流されてしまうのを、その視線で何とか食い止めようとしているようだった。
部屋を出る。
ユン自身の不安ではなくコーウィッヂが感じているだろう不安がユンの心を占めていた。
ものすごく強く疎外感を感じるのに、だ。
コーウィッヂがひたすらジーのことを考えているのだろうけれど、ユンはそんなコーウィッヂのことをひたすら想っていたのだから。
—————この気持ちを何というのだろう。
前も似たようなことが何度かあった気がする。
この領主館に来てから、コーウィッヂに会ってからだ。
ユンはそれの名前を見つけたほうがいい気がし始めていた。