屋敷には小雨のしずかなささやきが響いている。
ユンは目を瞬いた。
—————私がおかしいんだ。部屋に戻ろう。
ユンの足はその体を部屋に戻した。
ランタンをベッド脇のサイドテーブルに置いて。
そして制服に着替え、再びランタンを手に取って部屋のドアを開け、廊下を渡り。
階段を下りる。
日中は全く気にかからない自分の足音は今、小雨の音をかき消すほどの大きさに思える。
呼吸が次第に深くなるのは道理。
そのまま玄関を見るも、何もない。
人影も、ない。
—————さっきのは幻覚?
まさかそんな。
ランタンに照らされていたではないか。
玄関に近づき、ドアノブを回す。
しっかり鍵はかかっていた。
そのまま階段の裏手に回り、廊下を周り、裏口へ。
こちらも鍵がかかっている。
迂回してダイニングへ。
誰もいない。
—————私がおかしい?
疲れているのは間違いない。
豊穣祭の準備と来客で、気が楽とはいえ普段と全く違うルーチンになっている。
だからって幻影まで見えるほどじゃないはず。
ユンは調理場でコップに水を汲み、一口だけ飲み下した。
冷たかった。
お腹の中を通っていく無味無臭の温度は心臓の高鳴りを抑えてくれた。
だから、
—————おかしいのは私じゃない。コーウィッヂ様だ。
ずっとおかしかった。
勤め始めたその日の一番最初から。
あの見た目で自称42歳、実年齢は実際のところ不詳。
意識があるかどうかだけで、人間と魔物や魔道具の間に認識の区別がほぼないフラットな価値観。
手だけ大人になった美少年というあのアンバランスな体つき。
どれだけ走っても息切れ一つしないし、風邪もひかない。
突進してくるヤギを微動だにせず止めることができるのに、普段はそんな素振りを見せない。
ユンにはランタンなしで部屋から出ることすら不可能な夜のこの暗がりの中、皆に悟られることなく静かに階段を下りてここまでやってきて、夜な夜な優雅にティータイムすらできるその目。
自出不明で、戦後のどさくさに紛れてこの過疎の領にやってきて、犯罪者上がりの人間をかき集めて村を作っている。
その集められた人でさえ、コーウィッヂのことはほとんど知らないといっていい。
働いてお金を稼いで生きていくことに関係がないから、ユンは自らずっと、こういう一つ一つのエピソードに蓋をしてきた。
ユンは調理場のシンクの縁に両手をついた。
—————一番怪しいのはコーウィッヂ様じゃないか。
村人が脛傷とか、今別館にいるみんなとか、そんなレベルじゃない。
どんどん口が渇いていくのでユンは自然と二口目の水を口にした。
ジー、コビ、シロヒゲ、みどりちゃん、メイちゃん、ミーとキー、みんなの姿が頭の中を流れていく。
その最後にコーウィッヂが挨拶して回る姿が浮かんだ。
笑顔、目礼、各々のジェスチャーでそのコーウィッヂに返事を返して…
ユンはここまでイメージして初めて、今まで思ってもみなかったことに気づいた。
—————みんな、喋れない…?
この屋敷で働いている、ユン以外の人間はみな言葉を話すことができない。
じゃあユンは?
—————私、字、書けない…
コーウィッヂが情報をどこかに伝える、その手段が何かしら欠けている、そういう者だけを自分の周りに置いているのだとしたら?
『コーウィッヂには何か重大な隠し事がある』。
ぴちゃりと調理場の窓の外にある庇から、大粒の水滴が落ちていく。
足元から冷えているのに気づき、水の入ったコップを持って調理場を出て、ダイニングに移動する。
腰かけたそこは自然、夜に起きだしたときに座る定位置になる。
斜向かいに顔を上げる。
コーウィッヂの指定席は空席の玉座のようだ。
しかしそれは主の姿形をいつもよりもずっと強くユンの中に映し出している。
コーウィッヂはいやに来客一行の話を気にしていた。
拘泥していたといってもいいかもしれない。
カロネア地方は地図でしか知らないといっていたが、本当にそうか?
この地方と同じような崖地だから気になる、本当にそれだけだろうか?
今までユンが一緒に働いてきたコーウィッヂは、召使いの仕事の進め方に影響するとわかっていながら『一行と食卓を毎日共にする』という予定変更を突然するような人だったか?
—————『小さな巨人』。
コーウィッヂがおそらく、ここ数で最も反応していたキーワード。
ユンにはその言葉がコーウィッヂ自身を暗喩するように思えた。
コーウィッヂの存在はそれほどユンの中で大きかった。
いや、どんどんと膨れて大きくなっていた。
ユンはテーブルに両肘をつき、手を組んだ。
額を組んだその手に預けて目を閉じてみる。
—————コーウィッヂ様は、いいひとだ。
分け隔てなく向けられる屈託のない人柄。
いつも『無理しなくていいよ』と言ってくれる。
眠れないからって屋敷内をちょろちょろするなんて、普通は許されない。
自分から話しかけるのが得意ではないユンも、ここで働き始めてだいぶ周りに話しかけられるようになった。
それをしても邪険にされないとわかったからだし、そういう底意地の悪いことをするような者がここにはいないと知っているから。
夜にこの席でコーウィッヂが時々する、寂しそうな口調を思い出した。
ユンを迎えに来たとき、日光を背にユンを見下ろしたときのはっとした様子。
最初に夜ここに来て、一緒にお茶を飲んでいた時の、はにかむような仕草。
出来上がった制服を着て階段を降り、皆にお披露目した時の、驚いたような顔。
ユンは組んだ手をゆっくりほどいて立ち上がり、自分が今着ているそれを見下ろした。
—————私がやるべきことは、コーウィッヂ様の秘密をほじくり返すことなんだろうか?
—————その秘密はコーウィッヂ様の本質なんだろうか?
気になっていた雨音が気にならなくなってどれだけ経過したのか分からなくなって。
立ったまま、自分の体を自分で動かすことができないほどに考えにとらわれだしたその時。
ガタタン!
いくつもの足音が玄関の方から聞こえてきて。
荷物を下ろすような音もした。
「そのままでいいですから、少し待っていてください」
コーウィッヂの声に誘われるように、ユンはダイニングを出た。